ギリシア民主政の発展

ポリスの形成

ギリシアの歴史はポリスの歴史と言い換えることができます。暗黒時代を経たのちBC8世紀ごろからギリシアのいたるところでポリスの形成が始まりました。その際に、ギリシア人たちは「集住」を行いました。ギリシア語で「シノイキスモス」。外敵などに備えることが目的だったようです。こうして出来上がったポリスの中心部にはアクロポリスと呼ばれる丘があり、周辺にはアゴラと呼ばれる広場も設けられました。こうしてポリスが多くできる中、最も規模が大きいポリスがアテネでした。このアテネというポリスを中心に以下を続ける。



アテネの民主政発展にいたるまで

当時のギリシアには民主政というものは存在していない。つまり一般の者には参政権が認められていなかった。参政権は貴族にしか認められていませんでした。この参政権という権利を得るためには、まず軍役という義務を果たさなければなりませんでした。軍役を果たすからには、武器を得なければならない。裕福な貴族は武器を得られましたが、一般人には買うのは無理だった。参政権の有無とはつまり軍役を果たせるか否かの差であったことが分かります。しかし、あることをきっかけにアテネでは一般人にも参政権が広がってゆくことになります。これが民主政の発展です。

民主政発展への道①

BC8世紀から6世紀。ギリシア人達は海外植民市を建設していきました。エーゲ海沿岸だけで活動していたギリシア人は地中海、黒海などへ進出していきます。代表的な植民市としてマッサリア(現在のマルセイユ)・ネアポリス(現在のナポリ)・ビザンティオン(現在のイスタンブル)。

植民市が海外にも増えると交易の市場も拡大しました。市場の拡大は商品の買い手の拡大を意味します。作れば売れるため生産量が増える。すると値段が下がる。値段が下がったものの中に武具も存在していた。商工業の発展によって裕福になった平民はこれらの武器を買い始める。これが重装歩兵の発生に繋がります。彼らは密集隊形を取り戦争で活躍しました。

こうして武器を自分で調達し軍役の義務を果たしたので平民たちも当然の権利である参政権を貴族に対して要求することになる。

民主政発展への道② <ドラコンの立法>

貴族共和政であったその頃の時代。貴族達は平民の参政権要求を受け入れたくはなかった。受け入れたくなかったが妥協点として次の事柄を定めた。
ドラコンの立法(BC621)
貴族は妥協点として「ドラコンの立法」を定めた。このドラコンの立法は、それまでの慣習法を成分化して平民に公開するという内容。これにより今まで記録に残さず決められてきた法律などが平民にも分かるようになった。当然、平民に不利な内容が多くを占めたが、公開されたことで付け入る隙ができたということにもなる。
つまり、ドラコンの立法は民主政発展へ向けての最初の成果となった。

民主政発展への道③ <ソロンの改革>

ソロンの改革(BC594年)
改革者ソロンは当時アルコン(執政官)という古代アテネの最高官職についていました。その彼の改革は大きく二つのポイントがありました。

財産に応じて権利と義務を定めた。
市民を4つ階級に分け権利と義務を定めました。このような政治形態を「財産政治」と呼ぶ。これら4つの階級は裕福な順に、騎馬で戦争に行くもの、重装歩兵となるもの、軽装歩兵となるものなどに分かれていきました。しかし、市民でありながら安くなった武器すら買えない者は階級を与えられず「無産市民」として存在しました。彼らは戦争にはいけないので、参政権もありません。

負債を帳消しにし平民が債務奴隷に転落することを阻止した。
債務奴隷とは借金が払えずに奴隷になってしまう人たちのころ。この債務奴隷になってしまう平民が増えると戦争の主力である重装歩兵の数が減ってしまうため防がなければならなかったところにこの目的がある。

以上がソロンの改革でした

民主政発展への道④ <ペイシストラトスの僭主政治>

BC6世紀半ばにはペイシストラトスが僭主政治を展開します。僭主とはクーデターを起こして政権を奪取した独裁者のこと。多くは混乱を招いたが、ペイシストラトスは平民の支持を得て政治を行いました。しかし彼の息子ヒッピアスの代にこれも瓦解します。

民主政発展への道⑤ <クレイステネスの改革>

陶片追放
僭主が多発する状況を見てクレイステネス陶片追放ギリシア語でオストラキスモスを導入。僭主になりそうな人物を陶片(オストラコン)に書いて投票し一定の数に達すれば追放するというもの。僭主の登場を阻止する目的でした。

デーモスの設定
クレイステネスはそれまでの貴族の政治基盤であった血縁に基づく4部族制を解体。新たに地域的な10の「区」デーモスを設定しました。それぞれのデーモスの中で抽選によって50人ずつ選出し、五百人評議会を設置。日常的な行政を行いました。こうして平民の政治参加は進展。貴族が政治を左右することが難しくなった。

こうして無産市民以外の平民に参政権は拡大しました。そして、この無産市民にも参政権を得られるチャンスがこの後めぐってくることになる

民主政発展への道⑥ <ペルシア戦争

BC500年に始まりBC449年にカリアスの和約で終結する戦争。ギリシアとペルシアが何故戦争をするに至ったのか。これはやはり利害の対立が原因でした。アケメネス朝ペルシアに対するミレトスいう町を中心とした反乱をアテネが支持したことがきっかけでした。この反乱をイオニア植民市の反乱と呼びます。

第一回ペルシア戦争(BC492年)
当時のアケメネス朝の王ダレイオス一世はペルシア軍をギリシア北側のトラキアへ遠征させここを制圧。そこから一挙に艦隊を派遣しギリシア本土を攻撃しようとしたが、嵐でこの艦隊が難破。第一回はギリシアの不戦勝となる。

第二回ペルシア戦争(BC490年)
再びダレイオス1世はギリシア本土へ向けて軍を派遣。このペルシアの大軍VSアテネ&プラタイアイ軍の戦いをマラトンの戦いと呼び、アテネ側が勝利を収め、またもギリシアは勝利します。

第三回ペルシア戦争(BC480年〜479年)
ダレイオス1世の死後、後を継ぎ第三回の遠征を行った王はクセルクセス1世でした。10万のペルシア軍はまず、レオニダス率いるギリシアのスパルタ軍とテルモピレーで激突。これをペルシアは蹴散らします。

ペルシア戦争 サラミス湾の海戦
当時アテネの将軍職についていたテミストクレスはラウレイオン銀山の収益を軍艦建造へまわし海軍力を強化。アテネの軍艦200隻を主力とするギリシアはペルシア海軍と激突しました。このアテネの軍艦の漕ぎ手はあの無産市民でした。武器が買えずとも、軍艦を漕ぐことはできた。この時初めて無産市民が戦争へ参加した。つまり軍役を果たした。そしてこのサラミス湾の海戦はギリシアの勝利となります。
こうして次のプラタイアイの戦い、ミカレ岬の戦い両方にギリシアは勝利。ペルシアをエーゲ海から追い払いました。

軍役を果たすことができた無産市民に参政権を与える契機とペルシア戦争はなった。

民主政の完成⑦

BC5世紀後半にはアテネペリクレスが登場。アテネの黄金時代を築きます。彼の時代にアテネ民主政は完成しました。立法・行政・司法上の最高意志決定機関は「民会」が行い、この「民会」は成年男性(18歳以上)すべてが集まる会議でした。
公職は抽選で選出。そして公職の再選を禁じ、公平性を保とうとした。例外として将軍は再任を認められていた。最高の行政官であったアルコン(執政官)は抽選だったので、この将軍職が最も権威が高かった。
当然、現代の民主主義とギリシアの民主主義は異なる。3つ大きな違いがあって、1つ目は奴隷の存在があった。この奴隷は家内奴隷と生産奴隷の2種類があり、生産奴隷はラウレイオン銀山の採掘に従事させられていた。2つ目は女性には参政権が認められなかったこと。在留外人(メトイコイ)も参政権は認められなかった。特にアテネでは市民権法で両親共にアテネ人である18歳以上の男性に参政権(市民権)は限定されていました。3つ目は直接民主政であったこと。