ギリシアの覇権の変遷

ギリシアの覇権 アテネからスパルタへ

このようにアテネというポリス中心に動いていたギリシア。その中でアテネに次ぐポリス、スパルタがいました。スパルタはドーリア人が先住民を征服してできたポリスです。支配者を完全市民(スパルティアタイ)、商工業者を劣格市民(ペイオイコイ)、奴隷のへロットと三つに分類しました。完全市民の数はへロットの数の10分の1と極めて少なかった。
スパルタはリュクルゴス制という規定を定め、特に「軍国主義を貫くこと」「鎖国主義を貫くこと」を厳命しました。これはへロットの総数が圧倒的に多いこに起因している。軍国主義は常に反乱に対処できるようにするためであり、鎖国主義も貿易などによる商工業の発展から完全市民間に貧富の差が生まれる怖れがあったからであった。たたでさえ少ない完全市民が貧富の差で分裂してはへロットの反乱には対抗できないためである。

ペロポネソス戦争(BC431〜BC404年)

BC5世紀後半、ギリシアでは30年間ペロポネソス戦争が行われました。この戦争は覇権を握っていたアテネからスパルタがそれを奪うためのギリシアのポリス同士の紛争でした。アテネはペルシアを打ち破った中心であったため立場が強く、次のペルシアの来襲に備えてデロス同盟と称し金を各ポリスから集めていた。この金を当時の実力者ペリクレスアテネパルテノン神殿を建てることにつぎ込んでしまった。当然、他ポリスの不満は高まった。このアテネの横暴にスパルタを中心としたペロポネソス同盟が反発。ペロポネソス戦争が開戦。ペリクレスが始まってすぐ死去しアテネは劣勢。BC404年にはアテネ及びデロス同盟は敗北しました。

ギリシアの覇権 スパルタからテーベへ

ペロポネソス戦争に勝利したスパルタはギリシアの中心になった。しかしスパルタはペルシアが支配する小アジアに勢力を伸ばそうとした。ペルシアは怒り、ギリシアの反スパルタ勢力を焚きつけてBC395年戦争を起こさせた。これをコリントス戦争と呼ぶ。そしてBC371年テーベがスパルタをレウクトラの戦いで破り、テーベへ覇権が移った。
しかし、これはどれもギリシア内部の紛争であり覇権は変わるも、ギリシア全体の勢力は衰えていきました。農地の荒廃により多くの市民が没落。貨幣経済の浸透により、貧富の差は増大し市民没落に拍車がかかる。市民の没落は戦争の主力である重装歩兵部隊を解体する結果となってしまう。これに代わって傭兵が登場。市民皆兵の原則はここに崩壊。多くの市民が没落したことはこの軍事システムだけでなく、政治にも影響しました。扇動政治家が現れ政治を左右する「衆愚政治ギリシア語でデマゴーゴスとなってしまいました。この混乱にマケドニアが進出する。



ギリシアの覇権 テーベからマケドニア

当時のマケドニア国王フィリッポス2世はBC338年、アテネ・テーベ連合軍をカイロネイアの戦いで撃破。ギリシアのリーダーのデモステネスの頑張りもむなしく敗北。こうしてマケドニアギリシアを支配することになりました。フィリッポス2世はこの支配の際に、各ポリスにコリントス同盟(ヘラス同盟)を結ばせました。