オリエント世界の統一

アッシリア

アッシリアは元来商業民族として活動していて、鉄製の武器、戦車、騎兵を駆使して盛んに制服活動を行うようになった。そしてその征服活動がBC670年にエジプトを制圧した時点を持って、ついにオリエント世界の統一を生みます。首都はティグリス川上流のニネヴェ。アッシリアの最盛期の王はアッシュール=バニパルでした。この王はニネヴェに大図書館を建設したことで有名。
アッシリアの支配は非常に厳しく残酷であったようです。
オリエントの広大な領土をいくつかの州(属州)にわけ、総督を派遣して支配させました。そしてその領域を結ぶために駅伝制を整備しました。この統治システムは後々まで受け継がれます。
また、重税と強制移住は被征服民にとって相当な重荷となり、不満を増大させました。こうして不満は爆発しBC612年、アッシリアは滅亡します。

四国分立の時代

BC612年 アッシリアはメディア・新バビロニアカルデア)の連合軍によって滅ぼされます。この後はメソポタミアカルデア。イラン地方にメディア。小アジア半島にリディア。そしてエジプトの4つに分裂しました。
このリディアは史上初の鋳造貨幣として知られているので注意。リディアの首都はサルデス。

アケメネス朝ペルシア

その四国分立のひとつ、メディアの領内からアケメネス朝が興りメディアを倒してイラン地方を押さえました。この時の王はキュロス2世。前述の通り「バビロン捕囚」を終わらせた人でした。そしてカンビュセス2世の時にエジプトを征服しオリエントを再び統一します。最盛期の王はダレイオス1世でした。彼の業績はベヒストゥーン碑文に刻まれています。
アケメネス朝はアッシリアとくらべ比較的ゆるやかな支配を行いました。
広大な領土を約20の州に分け、サトラップと呼ばれる知事を派遣しその州を支配させました。そしてそのサトラップを監督するのが「王の目・王の耳」と呼ばれる監察官でした。さらに首都であったスサとかつてのリディアの首都サルデスを結ぶ国道は王の道と呼ばれました。異民族に対しては独自法や宗教を容認し、緩やかな支配を敷いた。
しかし、このアケメネス朝もダレイオス1世の次の王あたりから衰退していきます。アケメネス朝の滅亡に関しては「古代ギリシア」にて記述します。

アケメネス朝の文化
  • ベヒストゥーン碑文を解読したのはイギリスの学者ローリンソンでした。
  • 宗教はソロアスター教。善悪二元論が発想の根幹。善の光明神アフラ=マズダ 悪の暗黒神アーリマン