エジプト

エジプト

オリエントの2つ目の地域。メソポタミアは開放的な地形だったため民族の興亡が激しかったがエジプトは閉鎖的な地形なため、単調な王朝交替が繰り返され比較的分かりやすい。民族系統はハム系。ナイル川が流れており、メソポタミアと同じく農業生産力が向上、都市国家が形成された。その後政治的統合が進み王朝が成立。王朝のリーダーをファラオと呼び、前3000年頃、上下エジプトを統一した最初のファラオがメネス(ナルメル)であった。
ファラオはメソポタミアの神官や軍人のような神の代理人ではなく、神の化身として君臨したところに特徴がある。太陽神ラーの化身としてファラオは権力を握りました。
エジプトは大きく分けて三つの時代に分類することができる。以下その分類にしたがって記述する。

古王国時代(第3〜6王朝)

古王国時代の首都はメンフィス。第4王朝時代は大ピラミッドの建設ラッシュの時代で、三大ピラミッドといわれるものがギザに現存している。この内最大のものはクフ王のピラミッドである。

中王国時代(第11〜12王朝)

BC21世紀からBC18世紀に登場した第11・12王朝時代は中王国時代と呼ぶ。首都はテーベに移動。この時代の末期、東方から異民族ヒクソスの侵入を受けしばらく彼らが支配する時代が続いてしまう。

新王国時代(第18〜20王朝)

第18〜20朝時代を新王国時代と呼ぶ。首都はテーベのまま。この時代はエジプトが外に進出する次代で、シリア・ヌビア(現在のスーダン)に遠征しそこを制服した王、トトメス3世などが有名。彼は「エジプトのナポレオン」と呼ばれることもある。
またBC14世紀にはアメンホテプ4世が登場。彼の時代は宗教改革を行ったことで特徴がある。エジプトは他のオリエントと同じように多神教でした。例えばテーベの守護神がアモン神、太陽神がラーなど。この神にはそれぞれ神官が存在したが、彼らの力が王を凌ぎそうになったために彼らが仕える神を否定し、アトン紳の信仰を強制し力を押さえつけようという政治的な意味合いがこの宗教改革にはあった。首都もアマルナに遷都。後にアマルナからテーベへ再び首都を戻したのがツタンカーメンでした。
第19王朝の王はラメス2世。彼はシリアをめぐってヒッタイトと抗争を繰り返しました。この後、ヒッタイトとの間にカデシュ条約という、世界最古の国際条約を締結。
その後、アッシリアに統一されることになる。

エジプトの文化

最後にエジプトの文化に触れておきたい。
エジプトの文化は来世信仰が特徴的である。ミイラなどがその典型。「死者の書」も死後の世界への案内書として書かれたものである。この「死者の書」に書かれている冥界の神はオシリス神である。メソポタミアは現世的文化の特徴がありこれとは対照的だ。また、エジプトは神聖文字(ヒエログリフ)が非常に有名。この神聖文字の解読はフランスのシャンポリオンロゼッタ石に書かれたギリシア文字とエジプトの文字の併記を手がかりにしてなされた。最後に、測地術の発展が特筆に値する。これはナイル川の定期的氾濫が起因となって発展したものである。

メソポタミア

メソポタミア地方

まず1つ目の地域、メソポタミアについて記述する。まずメソポタミアの地形と言えば、ティグリス・ユーフラテス川が最も有名である。当然、肥沃な場所であったため農業生産力が向上、この時代、農業生産の向上は人口増加に直結し、人口が増えれば集団の規模も拡大した。こうして社会集団の拡大が、都市国家を生むことになったのである。メソポタミアで最初に都市国家を作った民族はシュメール人であることに注意したい。

① シュメール人

この都市国家は中心に守護神を祭る神殿があり、その付近には聖なる塔が建てらた。この塔の名をジッグラトと呼び、都市の運営は神官や軍人が神の代理人として行っていた。このように神の権威を背景に政治していることから、神権政治と呼ばれる。しかし間違ってはならないのが、神官・軍人=神の代理人 であり ≠神 ということに注意。

さてこのようなシュメール人が建設した都市国家には、ウル・ウルク・ラガシュなどがあった。これらの都市の間にも大小が存在し、大きい都市が小さい都市を支配下に置くことでバラバラであった都市もひとつにまとまることになった。これがウル第一王朝である。このウル第一王朝がつくった文字として楔形文字が非常に有名。

② アッカド王国

この後、ウル第一王朝の力は弱まりメソポタミアは分裂するが、再びアッカド王国が統一に成功する。アッカド人達の民族系統はセム系であることに注意。前述の通り民族系統は非常につっこまれやすいポイント。アッカド王国サルゴン一世という人物が登場すると、全メソポタミアを統一することに成功します。シュメール人達の勢力は南部に限られ、メソポタミア全体に及んでいたわけではありませんでした。しかしこのアッカドの統一もほどなく崩壊。その後、ウル第3王朝なども興りますが、それも100年ほどで滅びてしまった。

③ 古バビロニア王国

上記の後、古バビロニア王国(バビロン第一王朝)が登場しました。これを建国した民族はアムル(アモリ)人で、民族系統はセム系。アッカド王国と同様に全メソポタミアを支配している。そして、この古バビロニアにはBC18世紀、ハンムラビ王が登場しハンムラビ法典を編纂させました。
ハンムラビ法典の特色>

  1. 復讐法…「目には目を、歯には歯を」
  2. 身分法…身分によって刑罰が異なる。

このように発展した古バビロニア王国もBC16世紀にはヒッタイトの侵入で滅びることになる。

④ 3つの山の民族

古バビロニア王国が滅んだ後、メソポタミアの世界は山の民族が主役となります。山の民族の歴史意義として「彼らのエジプトやメソポタミアに対する軍事活動や交易活動が、これまで孤立的だったオリエント各地域を有機的に結びつけ1つの世界を形成したこと」が挙げられる。彼らの国家の共通点は強力な馬と戦車を用い盛んに制服活動を展開したことにある。

ヒッタイト
まず1つ目がヒッタイト。元々、小アジア半島の東南部が根拠地だったが、首都をボアズキョイに置きメソポタミアに侵入。古バビロニア王国を滅ぼしつつ、エジプト新王国ともシリアなどをめぐって抗争をした。また、ヒッタイトはオリエント世界で初めて鉄器を使用したこと非常に特徴的。彼らはこの製鉄法を独占していましたが「海の民」などの侵入によって滅びた後、オリエント世界に広がってゆくことになる。

ミタンニ
2つ目がミタンニ王国。この王国の建設者はフルリ人。彼らの民族系統は不明ですが、後のオリエントを統一するアッシリアを支配していたことが特徴。一時は広大な領域を支配していた。

カッシート
3つ目はカッシート王国。カッシート人が建国したものですがフルリ人と同じく民族系統はよく分かっていない。居住地区はメソポタミア東部の山岳地帯であった。彼らは古バビロニア王国の滅亡後、メソポタミアを数百年間にわたって支配していることに注意。ヒッタイトが古バビロニアを滅ぼしているので混同されやすい。また、カッシート王国はバビロンを拠点としたのでバビロン第三王朝と呼ぶことができる。

メソポタミアの文化

この項の最後にメソポタミアの文化を挙げておく。

オリエント概観

古代オリエント概観

オリエントとは古代イタリアから見て「日が上る地域」という意味。またオリエントの地勢を「肥沃な三日月地帯」とも呼ぶが、これはアメリカの考古学者ブレステッドが創始した言葉である。オリエント世界を学ぶ上でポイントなのが、①王朝交替 ②各国(各王朝)の民族系統である。これに気をつけた上で、古代オリエントを地域別にまとめる。


古代オリエントは3つの地域に分けることができる。

  1. メソポタミア
  2. エジプト
  3. 地中海東岸

これらの地域にはそれぞれ独自の文化と歴史が展開された。そして、BC7世紀前半にアッシリアがこれら3地域を統一し全オリエントを統一する。後に詳しく記述するが、このアッシリアの統一も数十年で崩壊することになる。崩壊後、アケメネス朝が再び統一を果たすことによって一つの落ち着きを得る。以上が古代オリエントのアウトラインである。