WORLD HISTORY

 ヘレニズム時代

ヘレニズム時代の概要

ギリシアの覇権を握ったマケドニアの王、フィリッポス2世が暗殺。アレクサンドロスが国王に即位。マケドニアギリシアの連合軍を率いてペルシアに向かって侵略戦争を展開。これがいわゆるアレクサンドロス大王の東方遠征と呼ばれている。この東方遠征が始まったBC334年、もしくはアケメネス朝ペルシアが滅亡したBC330年から、プトレマイオス朝エジプトが滅亡したBC30年までをヘレニズム時代と呼ぶ。約300年間。
このヘレニズム時代がギリシア人の全盛期となる。ペルシア戦争はあくまで侵略してきたペルシアを撃退しただけであり、この東方遠征はギリシアの領土が広がっている(シリア・パレスチナ・エジプト・メソポタミア・イラン中央アジアの一部・インドの一部)。

東方遠征の過程

対アケメネス朝ペルシア

BC333年イッソスの戦いによってペルシアに大きなダメージを与える。BC331年アルベラの戦いでもペルシアは敗北。翌年BC330年にペルシアは滅亡した。ペルシアの最後の王はダレイオス3世でした。

その後の遠征

中央アジアを経て、インダス川流域まで進出。そこで引き返すことを決意。その引き返す途中のバビロンでアレクサンドロスは死去。BC323年のことでした。

ヘレニズム文化

言語

広大な領域がギリシア人の支配下に入ったため、全領域で通用する言語が必要となり、コイネーと呼ばれる言語が共通言語として定められた。

思想

世界市民主義『コスモポリタニズム』という思想が生まれた。この思想は「理性を持つ存在として、人間は同質である」という考え。つまり、広大な領域を支配したギリシア人は、人間には容姿の違い・言語・風俗・習慣などさまざまな相違を実感し、表現は違えども共通する人間の同質性に気がついた。その同質性の基盤に理性があるということ。

美術

各地の文化と侵略者であるギリシア人の文化が融合した、このヘレニズム文化は美術にも影響を与えた。特にアム川流域にできたバクトリア王国は各地のその影響を広めていった場所でもある。このバクトリア王国のギリシア文化の影響を受けて、インドではガンダーラ美術が生まれた。このときの王朝はクシャーナ朝。これはギリシア風の仏教美術だった。

ヘレニズムの終わり

アレクサンドロスの死後、帝国は三つに分裂してしまう。この分裂の混乱を「後継者の争い」ギリシア語でディアドコイ戦争と呼ぶ。

  1. アンティゴノス朝ギリシアマケドニア
  2. セレウコス朝シリア(西アジア)←首都アンティオキア
  3. プトレマイオス朝エジプト←首都アレクサンドリア

この三つの他に自立した国が
バクトリア王国(中央アジア東部)
アルサケス朝パルティアイラン高原
・ポントゥス王国(黒海沿岸)
・ペルガモン王国(小アジア半島の西海岸)


こうして分裂した帝国では反乱(マカベア戦争など)が相次ぎ、そしてBC64〜63年にセレウコス朝シリアがローマの武将ポンペイウスによって征服されてしまう。最後まで残っていたヘレニズム国家のプトレマイオス朝エジプトもオクタヴィアヌスに滅ぼされ、ここにヘレニズム時代の終焉する。次項で詳しい滅亡の過程、ローマの発展を記述する。

 ギリシアの覇権の変遷

ギリシアの覇権 アテネからスパルタへ

このようにアテネというポリス中心に動いていたギリシア。その中でアテネに次ぐポリス、スパルタがいました。スパルタはドーリア人が先住民を征服してできたポリスです。支配者を完全市民(スパルティアタイ)、商工業者を劣格市民(ペイオイコイ)、奴隷のへロットと三つに分類しました。完全市民の数はへロットの数の10分の1と極めて少なかった。
スパルタはリュクルゴス制という規定を定め、特に「軍国主義を貫くこと」「鎖国主義を貫くこと」を厳命しました。これはへロットの総数が圧倒的に多いこに起因している。軍国主義は常に反乱に対処できるようにするためであり、鎖国主義も貿易などによる商工業の発展から完全市民間に貧富の差が生まれる怖れがあったからであった。たたでさえ少ない完全市民が貧富の差で分裂してはへロットの反乱には対抗できないためである。

ペロポネソス戦争(BC431〜BC404年)

BC5世紀後半、ギリシアでは30年間ペロポネソス戦争が行われました。この戦争は覇権を握っていたアテネからスパルタがそれを奪うためのギリシアのポリス同士の紛争でした。アテネはペルシアを打ち破った中心であったため立場が強く、次のペルシアの来襲に備えてデロス同盟と称し金を各ポリスから集めていた。この金を当時の実力者ペリクレスアテネパルテノン神殿を建てることにつぎ込んでしまった。当然、他ポリスの不満は高まった。このアテネの横暴にスパルタを中心としたペロポネソス同盟が反発。ペロポネソス戦争が開戦。ペリクレスが始まってすぐ死去しアテネは劣勢。BC404年にはアテネ及びデロス同盟は敗北しました。

ギリシアの覇権 スパルタからテーベへ

ペロポネソス戦争に勝利したスパルタはギリシアの中心になった。しかしスパルタはペルシアが支配する小アジアに勢力を伸ばそうとした。ペルシアは怒り、ギリシアの反スパルタ勢力を焚きつけてBC395年戦争を起こさせた。これをコリントス戦争と呼ぶ。そしてBC371年テーベがスパルタをレウクトラの戦いで破り、テーベへ覇権が移った。
しかし、これはどれもギリシア内部の紛争であり覇権は変わるも、ギリシア全体の勢力は衰えていきました。農地の荒廃により多くの市民が没落。貨幣経済の浸透により、貧富の差は増大し市民没落に拍車がかかる。市民の没落は戦争の主力である重装歩兵部隊を解体する結果となってしまう。これに代わって傭兵が登場。市民皆兵の原則はここに崩壊。多くの市民が没落したことはこの軍事システムだけでなく、政治にも影響しました。扇動政治家が現れ政治を左右する「衆愚政治ギリシア語でデマゴーゴスとなってしまいました。この混乱にマケドニアが進出する。



ギリシアの覇権 テーベからマケドニア

当時のマケドニア国王フィリッポス2世はBC338年、アテネ・テーベ連合軍をカイロネイアの戦いで撃破。ギリシアのリーダーのデモステネスの頑張りもむなしく敗北。こうしてマケドニアギリシアを支配することになりました。フィリッポス2世はこの支配の際に、各ポリスにコリントス同盟(ヘラス同盟)を結ばせました。

 ギリシア民主政の発展

ポリスの形成

ギリシアの歴史はポリスの歴史と言い換えることができます。暗黒時代を経たのちBC8世紀ごろからギリシアのいたるところでポリスの形成が始まりました。その際に、ギリシア人たちは「集住」を行いました。ギリシア語で「シノイキスモス」。外敵などに備えることが目的だったようです。こうして出来上がったポリスの中心部にはアクロポリスと呼ばれる丘があり、周辺にはアゴラと呼ばれる広場も設けられました。こうしてポリスが多くできる中、最も規模が大きいポリスがアテネでした。このアテネというポリスを中心に以下を続ける。



アテネの民主政発展にいたるまで

当時のギリシアには民主政というものは存在していない。つまり一般の者には参政権が認められていなかった。参政権は貴族にしか認められていませんでした。この参政権という権利を得るためには、まず軍役という義務を果たさなければなりませんでした。軍役を果たすからには、武器を得なければならない。裕福な貴族は武器を得られましたが、一般人には買うのは無理だった。参政権の有無とはつまり軍役を果たせるか否かの差であったことが分かります。しかし、あることをきっかけにアテネでは一般人にも参政権が広がってゆくことになります。これが民主政の発展です。

民主政発展への道①

BC8世紀から6世紀。ギリシア人達は海外植民市を建設していきました。エーゲ海沿岸だけで活動していたギリシア人は地中海、黒海などへ進出していきます。代表的な植民市としてマッサリア(現在のマルセイユ)・ネアポリス(現在のナポリ)・ビザンティオン(現在のイスタンブル)。

植民市が海外にも増えると交易の市場も拡大しました。市場の拡大は商品の買い手の拡大を意味します。作れば売れるため生産量が増える。すると値段が下がる。値段が下がったものの中に武具も存在していた。商工業の発展によって裕福になった平民はこれらの武器を買い始める。これが重装歩兵の発生に繋がります。彼らは密集隊形を取り戦争で活躍しました。

こうして武器を自分で調達し軍役の義務を果たしたので平民たちも当然の権利である参政権を貴族に対して要求することになる。

民主政発展への道② <ドラコンの立法>

貴族共和政であったその頃の時代。貴族達は平民の参政権要求を受け入れたくはなかった。受け入れたくなかったが妥協点として次の事柄を定めた。
ドラコンの立法(BC621)
貴族は妥協点として「ドラコンの立法」を定めた。このドラコンの立法は、それまでの慣習法を成分化して平民に公開するという内容。これにより今まで記録に残さず決められてきた法律などが平民にも分かるようになった。当然、平民に不利な内容が多くを占めたが、公開されたことで付け入る隙ができたということにもなる。
つまり、ドラコンの立法は民主政発展へ向けての最初の成果となった。

民主政発展への道③ <ソロンの改革>

ソロンの改革(BC594年)
改革者ソロンは当時アルコン(執政官)という古代アテネの最高官職についていました。その彼の改革は大きく二つのポイントがありました。

財産に応じて権利と義務を定めた。
市民を4つ階級に分け権利と義務を定めました。このような政治形態を「財産政治」と呼ぶ。これら4つの階級は裕福な順に、騎馬で戦争に行くもの、重装歩兵となるもの、軽装歩兵となるものなどに分かれていきました。しかし、市民でありながら安くなった武器すら買えない者は階級を与えられず「無産市民」として存在しました。彼らは戦争にはいけないので、参政権もありません。

負債を帳消しにし平民が債務奴隷に転落することを阻止した。
債務奴隷とは借金が払えずに奴隷になってしまう人たちのころ。この債務奴隷になってしまう平民が増えると戦争の主力である重装歩兵の数が減ってしまうため防がなければならなかったところにこの目的がある。

以上がソロンの改革でした

民主政発展への道④ <ペイシストラトスの僭主政治>

BC6世紀半ばにはペイシストラトスが僭主政治を展開します。僭主とはクーデターを起こして政権を奪取した独裁者のこと。多くは混乱を招いたが、ペイシストラトスは平民の支持を得て政治を行いました。しかし彼の息子ヒッピアスの代にこれも瓦解します。

民主政発展への道⑤ <クレイステネスの改革>

陶片追放
僭主が多発する状況を見てクレイステネス陶片追放ギリシア語でオストラキスモスを導入。僭主になりそうな人物を陶片(オストラコン)に書いて投票し一定の数に達すれば追放するというもの。僭主の登場を阻止する目的でした。

デーモスの設定
クレイステネスはそれまでの貴族の政治基盤であった血縁に基づく4部族制を解体。新たに地域的な10の「区」デーモスを設定しました。それぞれのデーモスの中で抽選によって50人ずつ選出し、五百人評議会を設置。日常的な行政を行いました。こうして平民の政治参加は進展。貴族が政治を左右することが難しくなった。

こうして無産市民以外の平民に参政権は拡大しました。そして、この無産市民にも参政権を得られるチャンスがこの後めぐってくることになる

民主政発展への道⑥ <ペルシア戦争

BC500年に始まりBC449年にカリアスの和約で終結する戦争。ギリシアとペルシアが何故戦争をするに至ったのか。これはやはり利害の対立が原因でした。アケメネス朝ペルシアに対するミレトスいう町を中心とした反乱をアテネが支持したことがきっかけでした。この反乱をイオニア植民市の反乱と呼びます。

第一回ペルシア戦争(BC492年)
当時のアケメネス朝の王ダレイオス一世はペルシア軍をギリシア北側のトラキアへ遠征させここを制圧。そこから一挙に艦隊を派遣しギリシア本土を攻撃しようとしたが、嵐でこの艦隊が難破。第一回はギリシアの不戦勝となる。

第二回ペルシア戦争(BC490年)
再びダレイオス1世はギリシア本土へ向けて軍を派遣。このペルシアの大軍VSアテネ&プラタイアイ軍の戦いをマラトンの戦いと呼び、アテネ側が勝利を収め、またもギリシアは勝利します。

第三回ペルシア戦争(BC480年〜479年)
ダレイオス1世の死後、後を継ぎ第三回の遠征を行った王はクセルクセス1世でした。10万のペルシア軍はまず、レオニダス率いるギリシアのスパルタ軍とテルモピレーで激突。これをペルシアは蹴散らします。

ペルシア戦争 サラミス湾の海戦
当時アテネの将軍職についていたテミストクレスはラウレイオン銀山の収益を軍艦建造へまわし海軍力を強化。アテネの軍艦200隻を主力とするギリシアはペルシア海軍と激突しました。このアテネの軍艦の漕ぎ手はあの無産市民でした。武器が買えずとも、軍艦を漕ぐことはできた。この時初めて無産市民が戦争へ参加した。つまり軍役を果たした。そしてこのサラミス湾の海戦はギリシアの勝利となります。
こうして次のプラタイアイの戦い、ミカレ岬の戦い両方にギリシアは勝利。ペルシアをエーゲ海から追い払いました。

軍役を果たすことができた無産市民に参政権を与える契機とペルシア戦争はなった。

民主政の完成⑦

BC5世紀後半にはアテネペリクレスが登場。アテネの黄金時代を築きます。彼の時代にアテネ民主政は完成しました。立法・行政・司法上の最高意志決定機関は「民会」が行い、この「民会」は成年男性(18歳以上)すべてが集まる会議でした。
公職は抽選で選出。そして公職の再選を禁じ、公平性を保とうとした。例外として将軍は再任を認められていた。最高の行政官であったアルコン(執政官)は抽選だったので、この将軍職が最も権威が高かった。
当然、現代の民主主義とギリシアの民主主義は異なる。3つ大きな違いがあって、1つ目は奴隷の存在があった。この奴隷は家内奴隷と生産奴隷の2種類があり、生産奴隷はラウレイオン銀山の採掘に従事させられていた。2つ目は女性には参政権が認められなかったこと。在留外人(メトイコイ)も参政権は認められなかった。特にアテネでは市民権法で両親共にアテネ人である18歳以上の男性に参政権(市民権)は限定されていました。3つ目は直接民主政であったこと。

 エーゲ文明

エーゲ文明

エーゲ海に面したクレタ島小アジア半島、ペロポネソス半島などがギリシアの舞台となります。
エーゲ文明とはBC3000年頃から1200年頃まで栄えた青銅器文明の総称であり、クレタ文明やミケーネ文明がこのエーゲ文明に含まれます。青銅器文明なので鉄器は知らなかったと言えます。ギリシアはまずこのエーゲ文明から始まります。以下にクレタ文明とミケーネ文明について説明します。

クレタ文明

この文明の特徴は城塞などが未発見であることから開放的で平和であったことが伺えることです。中心地はクノッソス。クレタ島のちょうど真ん中。エジプトやシリアなどとの交易で栄えました。後、このクレタ文明はアカイア人に滅ぼされます(BC2000年頃)
アカイア人達はクレタ文明をペロポネソス半島へ伝えました。そこでミケーネ文明が花開くことになります

②ミケーネ文明

BC16世紀頃、ミケーネ文明は成立しました。この文明の特色は模倣的であること(クレタ文明を模倣している)。そして好戦的な特徴が見られること。その表れが城塞が発見されていることにあります。中心地はミケーネ、ティリンス、ピュロス。それぞれ城塞王宮などが建てられたところから、王達はオリエント世界と同じく専制的な権力を握っていたようです。
ミケーネ文明で最も覚えておこなえばならないのが、この文明が使用した「クレタ線文字B」という文字です。イギリスのヴェントリスによって解読されました。
このミケーネ文明もBC1200年に崩壊していきました。原因としては北方からドーリア人というギリシア人の一派が進出してきたという説。海の民が破壊したという説。などはっきりした原因は分かっていません。ミケーネ文明崩壊後の400年余りを「暗黒時代」と呼びます。

 オリエント世界の統一

アッシリア

アッシリアは元来商業民族として活動していて、鉄製の武器、戦車、騎兵を駆使して盛んに制服活動を行うようになった。そしてその征服活動がBC670年にエジプトを制圧した時点を持って、ついにオリエント世界の統一を生みます。首都はティグリス川上流のニネヴェ。アッシリアの最盛期の王はアッシュール=バニパルでした。この王はニネヴェに大図書館を建設したことで有名。
アッシリアの支配は非常に厳しく残酷であったようです。
オリエントの広大な領土をいくつかの州(属州)にわけ、総督を派遣して支配させました。そしてその領域を結ぶために駅伝制を整備しました。この統治システムは後々まで受け継がれます。
また、重税と強制移住は被征服民にとって相当な重荷となり、不満を増大させました。こうして不満は爆発しBC612年、アッシリアは滅亡します。

四国分立の時代

BC612年 アッシリアはメディア・新バビロニアカルデア)の連合軍によって滅ぼされます。この後はメソポタミアカルデア。イラン地方にメディア。小アジア半島にリディア。そしてエジプトの4つに分裂しました。
このリディアは史上初の鋳造貨幣として知られているので注意。リディアの首都はサルデス。

アケメネス朝ペルシア

その四国分立のひとつ、メディアの領内からアケメネス朝が興りメディアを倒してイラン地方を押さえました。この時の王はキュロス2世。前述の通り「バビロン捕囚」を終わらせた人でした。そしてカンビュセス2世の時にエジプトを征服しオリエントを再び統一します。最盛期の王はダレイオス1世でした。彼の業績はベヒストゥーン碑文に刻まれています。
アケメネス朝はアッシリアとくらべ比較的ゆるやかな支配を行いました。
広大な領土を約20の州に分け、サトラップと呼ばれる知事を派遣しその州を支配させました。そしてそのサトラップを監督するのが「王の目・王の耳」と呼ばれる監察官でした。さらに首都であったスサとかつてのリディアの首都サルデスを結ぶ国道は王の道と呼ばれました。異民族に対しては独自法や宗教を容認し、緩やかな支配を敷いた。
しかし、このアケメネス朝もダレイオス1世の次の王あたりから衰退していきます。アケメネス朝の滅亡に関しては「古代ギリシア」にて記述します。

アケメネス朝の文化
  • ベヒストゥーン碑文を解読したのはイギリスの学者ローリンソンでした。
  • 宗教はソロアスター教。善悪二元論が発想の根幹。善の光明神アフラ=マズダ 悪の暗黒神アーリマン

地中海東岸(シリア・パレスチナ)地方

地中海東岸地方

最後に3つ目の地方の地中海東岸。これらの地はメソポタミア諸国、エジプト、ヒッタイトといった国々に翻弄される歴史を持っていました。ところがBC12世紀前後に「海の民」といわれる正体不明の人々が来襲、この地からエジプト新王国やヒッタイトの勢力を駆逐し空白状態が成立しました。そしてそれに乗じていくつかの民族が活発化しました。

アラム人

最初にアラム人の登場。彼らは陸上通商に特徴がありました。交易活動の最大の拠点はダマスクスでした。広い範囲での交易に伴いアラム語が広く普及し、アラム文字は様々な民族に文字形成の基礎を与えました。特にソグド文字・突厥文字などがアラム文字系列と言える。

フェニキア

フェニキア人は海上交易で活躍した民族。拠点都市にベリトス(現在のベイルート)。他にシドンとティルス。特にティルスカルタゴの母市として知られている。さらにフェニキア人の文化的な業績はアルファベットの原形をギリシア人に伝えたことにある。

ヘブライ

最後はヘブライ人。ヘブライ人は苦難の歴史でした。ヘブライ人のうちエジプトに移住していた人々はエジプト新王国に迫害を受け預言者モーセに率いられて帰還するという出来事「出エジプト」がありました。その後、サウル王によってヘブライ人の政治統一が達成されヘブライ王国が成立し、BC10世紀のダヴィデ王・ソロモン王の時代には最盛期を迎えます。特にソロモン王はイェルサレムのシオンの丘にヤハウェの神殿を築いたことで有名。
しかしこの一時の繁栄もBC10世紀後半には王国の分裂によって破綻、北部のイスラエル王国。南部のユダ王国が生まれました。イスラエル王国アッシリアサルゴン2世に、ユダ王国新バビロニアのネブガドネザル2世に滅ぼされる運命にあります。
この時、ネブガドネザルがヘブライの民を首都バビロンに連行し約50年間にわたって捕虜状態にしたことを「バビロン捕囚」と呼ぶことは知られています。結局、この状態を終わらせたのが後のアケメネス朝ペルシアのキュロス2世でした。それは後に詳しく記述します。


ユダヤ教について>
ユダヤ教はバビロン捕囚から解放後に成立することになった。神が預言者を通じて様々な啓示を与えているというのがおおまかなシステム。モーセ預言者の一人として数えられ、彼には「十戒」が与えられたという。特色としては唯一神ヤハウェを信仰する一神教であることがポイント。多神教が主流のオリエントにおいてこれは稀なケース。そして、偶像崇拝を禁止していること。選民思想。メシア待望の観念。などが挙げられる。